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最優秀賞受賞者

最優秀賞

 

心からの言葉で

 松長小 六年 白河榮

韓国語

 

 今私が何を言ったか分かりますか?日本人であるみんなさんには、何を言っているのか全く分からなかったのではな いでしょうか。今のみなさんのように、自分の周りに言葉の通じる人がたくさんいれば、私の言葉を聞いても何の不安もないでしょう。でもそれが逆にたった一 人ぼっちで聞いたとしたらいったいどんな気持ちになると思いますか。
 私は、小学一年生の時、家族で日本に来ました。韓国で生まれ育った私は、日本語が全く分からない状態でした。小学校へ入学すると、周りの人は日本語。分 からない言葉の嵐の中で、私は一人途方に暮れました。楽しそうに話をする友達を、ただ黙ってみていることしかできませんでした。
 そんな時、一人の女の子がにっこり微笑みながら、私に手を差し出してくれました。一人ぼっちで寂しかった私は、それがどんな意味か分からないまま、私の 手を、ギュッと握りました。その子は、私の手を引いてトイレに連れて行ってくれたのです。それが、日本の友達との初めての関わりでした。六年たった今で も、あの時の女の子の笑顔や差し出された小さな手を忘れることができません。「どうせ言葉が通じないから、誰も話しかけてくれないだろう。」そんなふうに あきらめていた私にとって、それは大きな驚きであると同時に、大きな喜びでした。「韓国語(あ りがとう)」そう叫びたい気持ちでいっぱいでした。でも、日本語の分からない私は、その気持ちを相手に伝えることができませんでした。「みんなと話した い。ありがとうって言いたい。」私は、このうれしさを何とか相手に伝えたくて、その日から必死に日本語を勉強しました。「ありがとう」が初めて日本語で言 えた時、友達や先生は「すごいね。」と心からほめてくれました。みんなの笑顔を見て、私はもっともっと日本語を覚えて、気持ちを伝え合いたいと強く思った のでした。
 今、六年生になった私は、言葉に困ることはなく、日本語が話せるようになりました。学校で唱えている「あいづっこ宣言」も暗唱することができるほどで す。このあいづっこ宣言には「年上を敬います」というのがありますが、これは私の故郷の韓国でも大切にされている教えです。小さい頃から、
年上の人は尊敬するように教えられてきた私にとっては「宣言」として取り組んでいることが不思議でした。でも、改めて周りを見渡してみると、年上でもかま わず悪口を言ったり、反抗的な態度をとったりする人が見られます。あいづっこ宣言の言葉を覚えても守れない人を見ると、言葉だけが言えても仕方がないと思 いました。
 人と人との関わりの第一歩は言葉だけれど、そこに相手への思いやりや、相手を気遣う気持ちがなければ、うわべだけの意味のないものになってしまいます。 会津の人たちは「おもてなしの心」で多くの観光客をお迎えしていると聞きました。その心にいやされ、何度も会津を訪れる人が多いそうです。
 私は日本という外国へやって来て、多くの友達や先生から大きな優しさをもらいました。人との関わりは、言葉ではなく優しい心が基本だということ、相手の気持ちを考えて優しい心で話しかけることが大切であるということを学びました。
私が外国人だからこそ、深く考えることができたのだと思います。
 私にいろいろなことを教えてくれた第二の故郷、会津。この地で、様々な人たちと関わり合いながら成長していきたい。
心からの言葉を遣いながら。

 

最優秀賞

 

アウシュヴィッツ平和博物館を訪ねて

 東山小 六年 小檜山明佳

 「なんて悲しい顔をしているんだろう。」
アウシュヴィッツ強制収容所の子ども達の写真の前で、私は足がとまってしまいました。
 昨年の夏、公民館行事で白河市にある「アウシュヴィッツ平和博物館」に行った時の事です。博物館には、みな同じ服を着て、悲しそうな顔をしたたくさんの 子ども達の写真がかべ一面にかざられていました。その子ども達は、働き手にならず、役にたたないという理由で、一番最初にガス室で殺されました。今、私達 子どもは何かあった時、大人に守ってもらえます。でも、戦争では、子どもだからといって決して特別に守ってはもらえません。子ども達の写真を見ながら、 もっと生きたかっただろう、こわかっただろうと思い、胸が苦しくなりました。また、たくさんの髪の毛が写った写真もありました。この髪の毛は収容所の中で 使う毛布を織るために、死体から切り取られた物だそうです。人間が、人としてではなく、物のようにあつかわれることに、心がふるえていきました。展示品の 中には、かかとが半分なくなっているボロボロの木ぐつや、汚れて割れた手鏡、歯のないくしもありました。これらの一つ一つが、私に向かって、戦争の悲しさ をうったえているように思えてなりませんでした。
 平和について考える機会が、身近な所でもありました。私は「会津子どもクワイヤ」でゴスペルを歌っています。私達は、毎日の生活の中で、うれしい時、楽 しい時に歌を歌います。でも、うれしいことも楽しいことも何もない時に歌い続けられた歌、それがゴスペルです。私の大好きは「オー・ハッピーデー」は、明 るくて心がウキウキするような曲ですが、
アフリカから無理やりアメリカに連れてこられた黒人達が、重労働のつらさと苦しさの中、生きる希望をなくさないよう歌い続けられた歌です。
 数年前の九月十一日、アメリカでテロによるビルのばくは事件がありました。ちょうどその時は、コンサートに向けて練習している時でした。
「こんな時、歌っていていいの?」
という疑問が、みんなの中にも私の中にもありました。その時、牧師のえつや先生が、
「だから歌おう。平和の大事さを、歌ってみんなに知らせよう。」
コンサートで私は、平和を願って歌いました。
 今、私の近くには、戦争も差別も、生きていくのがつらくなるようなことは何もありません。でも、イラクの争いは、未だに続いています。平和な世界になる ことを願ってこれからも歌っていこうと思います。あの収容所の悲しい子ども達を、これ以上つくらないようにするためにも。
 博物館の見学は、あまりにも残こくで、私は強いショックを受けました。このような悲しい博物館がどうして作られたのだろう、と見学している時は思いましたが、ここに来ることで平和の大事さを強く思うことができました。
 私は十二才、平和について、十二才の子どもの私には何ができるのか、歴史を正しく知ること、かわいそうだと言って目をそむけないこと、未来にそれを正し く伝えていくこと、そして戦争はいけないことだと強く思い続ける事だと思います。アウシュヴィッツ平和博物館を見学し、私は生きていることの尊さと死ぬこ との残こくさを知ることができました。死んでしまったたくさんの子ども達の分も、人が人をきずつけることのない、平和な世界であることを願って生きていこ うと思います。ゴスペルの歌を歌いながら。

 

最優秀賞

 

介護ヘルパーという夢

 河東第三小 六年 歌川さつき

 みなさんは、「介護福祉士」という職業を知っていますか?
 「介護福祉士」というのは、老人ホームなどの介護施設で、お年寄りの世話をしたり、自宅に行って、食事や掃除など、身の回りの世話をしてあげたりする仕事のことです。
 現在、国家資格がなくてもヘルパーになることはできますが、将来は国家資格が必要になるそうです。私は、介護福祉士の国家資格を取って介護ヘルパーになることが夢です。
 今、日本では高齢化が進み、お年寄りたちが増え、若い人たちが減っているそうです。
 日本の人口を表すグラフに「人口ピラミッド」というものがあります。四人に一人が高齢者だと言われていますが、私たちが大人になるころには、そのグラフの三角形がますますくずれて、人口のほとんどが高齢者になってしまうかもしれません。
 小学校二年生のときのことです。生活科で老人ホームに行き、おじいさんやおばあさんたちが、ゲームをしているところを見学したり、いっしょにおしゃべり したりしてふれ合いました。その時私は「お年寄りたちがこんなに楽しくいられるのもヘルパーさんのおかげなのかな。」「ヘルパーさんたちはすごい仕事をし ているんだな。」と感動しました。
 話をしながら、どんどん笑顔になっていくお年寄りを見ていると楽しかったです。
 あっという間に過ぎて、お別れの時間になりました。ふと見ると、さっきまで私と楽しく話をしていたおばあさんが涙を流していました。すぐにヘルパーさんが来て、
「どうしたんですか。」
と、話を聞いてみると、見学に来た私たちを見て、遠くに住んでいる自分の孫を思い出したのだそうです。私が、
「大丈夫ですか。」
と聞くと、
「ありがとう。」
と言って、手をにぎってくれました。この時に私は、「ヘルパーさんになって、このおばあさんのような人たちのさびしさ、悲しさを少しでもなくしてあげたい。」と思いました。
 このように、老人ホームを訪問したことと高齢化という問題が重なって介護ヘルパーへの気持ちが強くなりました。
 老人ホームにいるお年寄りは、このおばあさんのように、家族と離れて生活しています。
 私の自宅は店になっていて、長い間祖母が、その店の仕事をがんばっています。もしも将来、祖母に介護が必要になったとしても、老人ホームに入ってほしく はありません。店とともに思い出のある家と離れて、私たち家族とも離れて生活することを、祖母は願っていないからです。
 私は、自分の祖父母に家族を思い出して涙を流すようなさびしい思いをさせたくはありませんし、ずっと祖父母のそばにいたいです。
 将来、介護が必要になった時には、わたしたち家族が支えていかなくてはいけないと思います。
 老人ホームのおばあさんの涙を見てから、私の将来への気持ちがはっきりしました。
 これからますます介護を必要とする人が増えて、介護ヘルパーがたくさん必要になってくると思います。
 食事やトイレ、入浴など、介護の仕事は、私が思っている以上に大変なことが多いと思いますが、介護福祉士の仕事について勉強することは、自分の家族を介護するときにも役立つことだと思います。
 私は、あのおばあさんのように家族と離れてさびしい思いをしているお年寄りのために、役に立てるような介護ヘルパーを目指してがんばります。
 「おばあちゃん!安心してお店を続けてください!」

 

中学生の部

 

最優秀賞

 

人と人

 河東中 三年 栗田愛子

 私の家は、父、母、姉、弟、そして私の五人が、一緒に生活しています。私は、それがごく普通で当たり前なことだ と勘違いしていました。笑ったり、食事をしたり、ケンカしたりしていつも一緒にいた人が急にその場からいなくなってしまうさびしさと怖さを私は全く知りま せんでした。
 ある朝、父は腕の痛みが激しく、病院で検査を受けました。正午過ぎに母から電話が入り、「お父さんは頚椎ヘルニアっていう病気で少しの間だけ入院するこ とになった」と、いうことを聞かされました。受話器から聞こえてくる母の声には、力がなくとても疲れきっていて、そして少しだけ震えていたような気がしま す。その声を聞いた私は怖くてさびしくて、声さえ出せずに涙を流すことしかできませんでした。
 そして、その日から家に穴があきました。
 他の誰も埋めることのできないお父さんという大きな穴でした。そして、その穴があいてしまった分、大変だったのは母でした。今までこなしてきた家事、炊 事、仕事に加えて父の仕事も背負うことになったからです。ただでさえいつも苦労している母にこれ以上苦労させてはいけない。私達姉弟はそう思い、自分達に できることをしようと決めました。そして、犬の散歩や、お風呂の掃除、そしてゴミ出しなど普段母がやっている仕事を分担して行いました。こんなに数多くの 事を仕事で疲れているはずの母はこなしているんだということを身をもって実感したのと同時に、母に任せてばかりいた自分がとても恥ずかしく、とても情けな く感じました。
 そんなある日、私達は母と一緒に父の見舞いに行きました。薄暗い病室のベッドで一人横になっている父の背にはチューブがつながれている状態。その姿はと ても痛々しく見ていると胸が張り裂けそうになりました。「心配かけてごめんな。」私達の沈黙を破るかのように父はつぶやきました。
 今、痛くて苦しくてつらいのは父なのに、それでもいつも私達を一番に考えて生きてくれているんだと強く感じました。
 それから数日後、父が退院して家に帰ってきました。夕食のとき、父がいつもの席に座っていること、一緒にテレビを見て一緒に笑っていること。それは、父 が入院する前までの普段の生活でした。全てが元に戻っただけなのに今は、それがとても大切でとても愛しくて、この上ないぐらい、幸せなことなんだと思いま した。
 父の病気はまだ治っていません。完治させるには手術が必要だそうです。今も時々くるひどいしびれにたえながら毎日仕事をしています。私は心配になって、 「どうして手術しないの。すれば治るんでしょ。」そう言うと、父は少し黙ってから「今はみんなが大変な時期だからお父さんだけ休むことはできないんだ。」 と、てれくさそうに言いました。それは父らしい力強い一言でした。そしてこんなに頑張って毎日を過ごす父に負けないように私も精一杯頑張って過ごそうと思 いました。
 私達人は、一人では生きていくことができません。必ず誰かに支えられて生きているのです。私にとってそれは、家族です。どんなにつらくて苦しくて、逃げ 出したくなるようなときも、いつも一緒にいてくれる、自分に一番近い存在。だからこそ、いなくなってしまったときに感じるさびしさや怖さは人一倍のものが あるのだと気づかされました。
 あなたの周りにも、いつも当たり前のように一緒にいてくれる人が必ずいます。私達は、その人に感謝の気持ちを忘れずに生きていかなければならないと私は考えます。

 

最優秀賞

 

命の重さ

 第五中 三年 古川真央

 人はなぜ、死に急ぐのでしょう。
 ここ数年、自ら命を絶つ人は全国で三万人を越えるそうです。交通事故の死亡者は七千人前後ですから実の四倍を越えています。あまりに多くて、よほどでな ければニュースにすらのぼりません。また、若者による殺人事件も毎日のように報道されます。一六歳の少年が、学習の悩みで母親と幼い兄弟を殺したり、大学 生が集団リンチの末、生き埋めにしてしまったり、どうしてそんなに簡単に命を終わらせてしまうのでしょうか。
 私の叔父は十年間も難病で苦しみました。病名は筋萎縮性側索硬化症、ARSです。その病気は少しずつ、確実に叔父の体を蝕み、自由を奪っていきました。 そして叔父は自分の力で歩くことも、話すことも食べることさえできなくなりました。しかし、叔父は最後の最後まで病気と闘い、この春、与えられた命を全う しました。
 闘病生活の間も、私がお見舞いに行くといつも笑顔で迎えてくれました。看病で疲れているはずの叔母やいとこたちも笑顔を絶やしませんでした。叔父の周り はいつも暖かく柔らかな空気に包まれていました。叔父は不自由な身体になっても決して不満をぶつけたり、怒ったりしなかったそうです。苦しい病床にありな がら、なぜこうも周りを思いやることができたのだろうか。私はいつも不思議でした。
 ある時、まだ口がきけた頃、
「自分が病気になってしまって、二人の子供たちに大きなハンディを負わせてしまった。」
と言った叔父に、叔母は
「どんな姿になっても生きていてほしい。」
と答えたそうです。
 家族を愛し、家族を想い、最後まで笑顔を絶やさなかった叔父、そしてどんな姿になっても支え続けた叔母。叔父夫妻の生き方は、叔父が亡くなった今でも私の胸に刻まれています。
 また、世界に目を向けるとたくさんの子供たちが、飢えや戦争で命を落としています。もっと生きたいと願いながらも生きられない人々がいます。親と離れば なれになって、草や虫など口に入れられるものは何でも食べ、それでも飢え、おなかだけが異様に膨らんだ子供たち。ボロボロになった服を身にまというつろな 目で物乞いする子供、住む家もなくマンホールを住みかにしている子供、この子供たちに来年の春は来るのでしょうか。同じ時代に生きている人間なのに、私と 彼らはこうも違うものなのか、いやこうも違っていいのでしょうか。
 私や友達も、毎日様々な悩みをかかえながら生きています。私自身、いろいろなトラブルに疲れた時、何もかもがいやになって投げだしたいと思ったことも何度もありました。この場所から逃げだしたい。消えてしまいたいと願ったこともありました。
 「辛いことは全部忘れたいよね。」と真剣に友達と話したこともありました。でもそんな時に私はいつも叔母の言葉を思い出すのです。
 「どんな姿になっても生きていてほしい。」この言葉は叔父に向けた言葉ですが、同時に私に「生きること」の「生き続けること」の大事さを教えてくれた言葉でもあります。
 そうなのです。生きているからこそできることがたくさんあるのです。たとえ小さな私たちでも、この地球の中では、一人ひとりが大事な役割があり、それぞれを必要としてくれる家族がいます。だから私たちは生きていかなければならないと思うのです。
 自分の価値を問うなんてことはナンセンスなことです。生きたい人がいる。死にたくないと願う人たちがいる。この現実をしっかり受け止め、一人でも多くの人が、命の重さに気付くべきだと思います。誰もが限りある命です。私は私の命を大切にしていきたい。

 

最優秀賞

 

未来の入り口に立って

 湊中 三年 渡部明日佳

 「誰か、脚本を書きたい人はいますか?」
 「はい。」
学級会議長の言葉に勢い良く手を挙げた私。家に帰って、すぐに母に報告しました。
「私ね、文化祭の脚本を書くことになったよ。もう構成は浮かんでるんだ。」
そんな私に、母は一言。
「そう。じゃあ、夢の第一歩だね。」
 そうです。私の将来の夢は脚本家になることなのです。そう思うようになったきっかけは、中学一年生の時の文化祭。私の学級の劇の脚本は、担任の先生が書いてくれました。
「何これ、すっごくおもしろい。」
その脚本を初めて読んだ時、いつのまにか手のひらにものすごく汗をかいていました。別にハラハラドキドキの物語だった訳ではありません。でも、その脚本は 明らかに私をある世界に引きずり込み、興奮させていたのです。さらに、文化祭が終わってから先生が言ってくれたのです。
「明日佳は、文の構成が上手だな。将来、脚本家とか合っているんじゃないか。」
ハリーポッターを読んでから、小説を書きたいと思ってきた私でしたが、先生のその言葉で、自分の将来の夢が、「脚本家」という形ではっきりと姿をあらわすようになりました。
 そして、中学二年生の夏、私は文化祭の劇の脚本を書き始めました。さて、脚本を書き始めると、手が全く止まりません。頭の中に次々と言葉が浮かんできて、どんどん台詞が書き上がっていきます。しかし、ある日、書く勢いが全くなくなったのです。母に、
「明日佳は、もっと言葉の種類を増やさないと、いい脚本はできないよ。」
と言われたからです。確かにそうでした。同じ表現が重なり、悩んでもいたのです。頭の中でストーリーは進んでいるのに、それにピッタリの言葉が見つからな い。パソコンのキーボードに指を乗せたまま、時間だけが過ぎていきます。何とかしなきゃ。何とか・・・。思い悩んでいるうちに本棚に目がいきました。
「そうだ。私にとって本が参考書なんだ。」
本を読んでいると、様々な表現が出てきます。たった一行の文でも、それが私にとって探し求めていた最高の一文だったりします。それを、すぐにでも自分の作 品に入れたくなりますが、それはできません。また面白くもありません。ちょこっと言葉を入れ換えたり足したり引いたりしていくうちに、言葉はシャボン玉の ように私の中で浮かんでは消えながら、意外な台詞となって登場人物をつき動かしていくのです。気がつくと、私の指はまたキーボードの上をせわしく走り始 め、とうとう原稿用紙にして二十枚程度の脚本が仕上がりました。私に脚本家になれと励ましてくれた先生は転勤されて、私の作品を見てもらえませんでした が、同級生達は、私の脚本を喜んで演じてくれました。
 さて、最近、姉が私にこう尋ねました。
「明日佳はどんな脚本家になりたいの?」
姉は高校三年生。今、自分の進路を真剣に考えている最中です。私は考えました。考えて考えて出した答え。それは、こうでした。
「私はね、自分の作品を見た人の世界を広げられるようになりたいの。今まで、ただ前だけを見て突っ走ってきた人が、私の作品を見て、道の脇に咲いている花を見ようと足を止めちゃうような。そんな影響力を持ったライターになりたい。」
すると、姉は言いました。
「明日佳の夢はしっかりしているね。明日佳の脚本で何人の人が足を止めるんだろうね。私も負けていられないな」
そう、私の夢は脚本家。昨年の劇のエンディングには、こう書きました。
「私達には、まぶしさ全開の未来への道が待っているんだから!」
私は今、その入り口に立っています。